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アウトドアサークル早大漫歩会公式ウェブサイト
タイトル:早大漫歩会公式ウェブサイト・月観漫族
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「無頓着な日本の私」 第1幕

 月日は百代の過客にして、行きkau年もまた旅人なり。

 おお、いけない。タイプミスをしてしまった。しかしタイプミスではあるが発音表記としては大方正確なのではあるまいか。ときには真実というものが大多数によって間違いとされることも少なくはなかろう。そこには歴史があり、人の心が宿っているのである。ひとたび一人の人間によって創造の奇蹟が起これば、それの放つ輝きに吸い寄せられ涙を流す大勢の教養人、一般大衆によってそれは広められ、拡張され、事実として受け入れられる。そしてその事実の真実性は確固たる地位を長期間に亘って持続することもある。しかしあくまでもそれが持っているのは真実性であって真実ではないのだ。そしてその真実性に疑いを抱きそれを破壊に導くのも一人の人間によってのみ起こるのである。それは破壊という一つの創造であり、そこにも真実性または真実が宿るのである。

 私はいま部屋の隅に置いてある白いパソコンに向かっている。そこで見たことのない、しかし見慣れた女性が私に微笑みかけているのを背中で感じた。だが振り返ろうとは思わない。そこには必ずその女性がいることも分かっているし、微笑を口元に浮かべていることも知っている。しかし私にとってもっとよく分かっていることは後ろを振り向いた瞬間にその女性は姿を消し、次に会うときには私を殺すだろう。それが私の創造した一つの真実であって、真実性はない。だが私にとってそれは遥かに真実性を凌駕していて、私をその中に引きずり込み、どろどろに溶かしてしまう。そしてそのうすく彼女の唇に宿っている微笑に本気で安堵しながら私はタイピングを続ける。そしていま私は孤独の中にある一つの安息――決して私は一人ではなく、かつ私は間違いなく一人である――のなかで想像を巡らせ創造に励む。もちろん私がkauの肯定者であることをここで主張したい訳でもなく、むしろkouでありたいとさえ思っている。

 私は大きさ、重さの異なる鉄球の落下運動に関してはどうでもいいと思っている。私がより求めたいのはそこに至る人間の心なのである。人の数だけ抽象的な(その分きわめて具体的である)二つの鉄球が用意され、塔の上から落とされる。そして地面に鉄球が落下するまでにその対象が様々なフィルタを通過して観察され、布に拭われ、海の底に沈んでいく。底には水圧で重さを失った、魂のない鉄球がそこで世界に永遠の別れを告げる。そして鉄球は孤独となる。その鉄球は人間のめいめいのメタファーであって、鉄球はその個人から少しも切り離すことができない。海の底にあろうと脇の下に挟んでいようとそうである。温もりは陽の届かぬ海底で温められ、そこでいま自分一人であるということを実感する。実感という言葉が正確でなければ真実として真実性を凌駕するとでも言っておこう。人間の重要性とは相互協力によってその種を発展に導くことにあるのではなく、スタインベックの言うように、人間の持つ孤独な魂の中に宿っているのである。